2009年 02月 23日
“カンポ・パライソ”の熱い夜 |
Copa de la UEFA dieciseisavos de final/vuelta
Villarreal CF - FC Zenit San Petersburgo
Jueves, 21 de febrero del 2008
Estadio El Madrigal,Villarreal
ビジャレアルの街のはずれにエル・マドリガルが完成したのは1923年というから、日本でなら大正時代の末に当たる大昔の事。以来86年、幾度もの改修・拡張工事を経ながら今も同じ場所にある。始めのうちは“Campo del Villarreal≒ビジャレアル・グラウンド”と呼ばれていたが、2年後の1925年、まだ当時は市街地化しておらず片田舎だった辺りの地名を採って“エル・マドリガル”と名付けられたという。
同じく1923年に産声を上げたサッカー・クラブ Villarreal CFは、大事なこの本拠地のこけら落としを、何故か隣り街である県都カステリョン市のダービーマッチ CD Castellón - Cervantes戦に譲っている。地域リーグや2部・3部の間を昇降しながらその歴史の大半を過ごしていた“El Submarino Amarillo イエロー・サブマリン”が、晴れてトップリーグに“浮上”するのは1998年。その前年には、国内指折りのセラミック企業の主であるFernando Roigフェルナンド・ロッチ氏が会長に就任し、卓越した経営手腕でクラブ強化に乗り出していた。(ちなみにセラミック・タイルの製造はビジャレアル市の主要産業である)一度は2部に逆戻りしたものの、1年ですぐに復帰。その後は1部の常連となり、近年はリーガ・エスパニョーラを代表する強豪クラブのひとつにまで成長を遂げているのはご存知の通り。
わずか人口5万人弱の小地方都市に、86年前の昔から消滅する事なく存続するサッカークラブとそのスタジアム。つまり、この街で生まれ育った人なら皆知っているだろう、当たり前に在るもの。2千人に満たない数の観客しか集められなかった頃が嘘のように、今やエル・マドリガルの平均入場者数は17000人。この08/09シーズンは2万人を超えるサポーター会員を抱えると聞く。まさかその全員がビジャレアル市民では無いとしても、これは驚異的な数字である。
ビジャレアルの街に暮らす人々にとって、エル・マドリガルに行き、ビジャレアルCFを応援するとは、一体どんな事なのだろうか。
続々とcampoカンポに入場してきたドラム隊は、そこが指定席なのだろうホーム側ゴール裏近くのコーナー付近に陣取った。係員に教えてもらった私の席は彼らの左斜め後方、通路に面した処だった。シートに腰を落ち着け、ゆっくりと場内を見渡す。まず臨場感が素晴らしい。ピッチまでが凄く近く、席の傾斜も申し分無い。ゴール裏に視線を向けてみる。そこを埋めているのは様々な顔。老いも若きも、男も女も。これは言わばビジャレアル市民の集いなのだろう。意外にも黄色のシャツを身に着けた人は少ないようだ。普段着であること。試合観戦は何も特別な事では無く、彼らにとっては極々日常的な愉しみなんだろうなと思わせる。遠くに一部青色が目立つ区域を確認できた。優に200人を超えているだろうか。ロシアからの応援団は私のいる処からはほぼ対極に位置するコーナー・フラッグの上、柵で仕切られた狭いスペースに隔離されていた。ゴール裏ではなく、そこがアウェー席なのだろう…。
エル・マドリガルは豪奢な建物では決してない。むしろこじんまりとして飾り気の無い、簡素と言えそうな造りだ。しかし唯々フットボルを堪能する為にはこんなに適した場所も無いに違いない。2万人近くの市民が肩を寄せ合うように、固唾をのんで選手達のプレーに見入る。熱を含んだその空気の親密さ・その雰囲気は、何処となく田舎街の小さな劇場にいる様な気分にさせる。或は懐かしさ漂う芝居小屋(!)だろうか。更に開始時刻が夜の8時45分とくれば、このゲームは一種のレイトショーではないか。

小さな街のスタジアムに、今宵もフットボルを楽しみに人びとが集まってくる。ドラム隊の繰り出すマーチに合わせてゴール裏から聴こえてきたのは、手拍子による合奏。それがある時は強く、ある時は温かく、波の様にうねりながらカンポの屋根に響き、ピッチへと流れてゆく。シンプルな手拍子に何と豊かな表情がある事だろう。そしてそれが、何と素晴らしい応援になる事だろう。心が揺さぶられ、胸が熱くなる。笑みを浮かべながらゴール裏の席で柔らかく手を叩く銀髪の御婦人の姿を目の当たりにした時、堪えきれずに到頭私の涙腺は決壊した。カンポを包んでいたのは、Los Amarillos=ビジャレアルのチームへの、市民サポーター達の無償の愛だった。それがゲームに臨んだ選手達の背中を押していた。

アウェーの第一戦で0-1の敗北を喫しているビジャレアルには2-0の勝利が求められる。果敢に攻めるロス・アマリージョス。これぞピボーテ、マルコス・セナが熟練の捌きでボールを散らす。左サイドからは洒落たボールタッチで、再三ピレスがチャンスメイクを試みる。先発FW、トマソンの相棒にはイタリアの若き俊才ロッシ。しかしゴール前を固めたゼニトの守りを思う様に崩せない。相手はファウル覚悟の、体格を利した激しいチャージを仕掛けてくる。何度もピッチに倒れるビジャレアルの選手達。特に小兵ロッシが餌食になる。そして攻めあぐねる時間が続いた31分。あろう事か、GKディエゴ・ロペスの痛恨のミスで敵に1点を献上してしまった…。

詰めかけた観衆は選手のプレーのひとつひとつを食い入る様に見つめ、身を揺らしながら喝采を叫ぶ。かと思いきや審判の判定に熱り立ち、手を突き伸ばして異議申し立てする。敵のファウルには勿論痛烈なブーイング。ただその罵声に憎しみの色は無い。これはおらがチーム可愛さ故の威嚇の唸り声だ。私の左隣りの兄ちゃんはスナックを貪りながらひとり寡黙に試合を観ているのだが、惜しいチャンスを逃すと決まって飛び上がりかけては、頭を抱えて席に落ちる。(だんだんそのリアクションが私とシンクロしてきて困る)人目を憚らず、ゲームにのめり込んでゆく人々。もうひとつの連想。こんな光景を何処かで見た。そうだ、映画『Nuovo Cinema Paradisoニュー・シネマ・パラダイス』。とあるシチリアの田舎町の名画座。そこで上映される悲喜劇の数々に我が身を投影しながら、喜怒哀楽豊かな反応をみせるあの観客たち。相通ずるのは陽光降り注ぐ地中海地方の風土とラテンの気質。そう、確かに此処エル・マドリガルは、フットボル小劇場のパライソ(パラディソを西語で言うとこうなる)すなわち楽園に違いない…。

後半、エンドが変わってホーム側に向かって攻めるビジャレアル。ゴール前の攻防が私のすぐ目の前に。その迫力。痛いアウェー・ゴールを許し、まずタイに戻すのに3点が必要な状況だ。50分。ゼニトの高い壁に阻まれ不調のロッシに変えてニハト投入。スタンドが発する熱が伝染したのか、或はトルコの血か。そのプレーが熱い。怒濤の勢いでピッチを駆け回り、“よこせ!!”とばかりに手を振り上げてボールを要求する。俄然攻撃が活気づく。74分のCK、ニハトが蹴ったボールをギジェ・フランコが頭で合わせて同点。あと2点…。

ペナルティエリア近くまで持ち込んだピレスが渾身のクロスを放つ。だが惜しくも…。


刻々と時間が過ぎてゆく。隣の兄ちゃんの手が忙しなく動く。足元には豆の皮が散乱する。

露骨に時間稼ぎするゼニトGKに掴み掛からん勢いのニハト。熱い。


終盤、パワープレーまで織り交ぜ、捨て身の猛攻。土壇場の89分、ピレスが放ったシュートのこぼれをトマソンが押し込む。ようやく2点目が入った。“バァ!” “バァ!!”何時しかスタンドのあちこちからそんな叫び声が発せられ始めていた。
“Va!”…か? おそらくバレンシア語なのだろう。カスティージャ語(スペイン語)なら“¡Venga!”になるところだろうか。“行け! 行け!!” あと1点。なんとか延長に持ち込めば勝ち抜きが見えてくる。ロスタイムに入った。もう時間が無い。“Va!!” いつの間にか私もそう叫んでいた。そこら中から“Va!!”を連呼する声。“バ〜〜ァァッ!!…”…次第に悲痛なトーンも混じり出す。“行けっちゅうたら!!…”。


5分に及ぶ長いロスタイム。しかし起死回生の3点目を奪う事は叶わずに試合終了のホィッスルが響く。圧倒的にボールを支配しながら痛恨の失点に泣いた。試合そのものには勝利を収めたものの、アウェー・ゴールの差により、ビジャレアルのUEFA CUP制覇の夢は絶たれた…。カンポを覆う脱力感。人々が次々と足早に去る中、私は名残惜しい想いでエル・マドリガルのスタンドに残っていた。そうしてしばらくゲームの余韻に浸っていた。
やおら腰を上げ、すっかり人気が失せた“Campo Paraiso”のスタンドとピッチをもう一度眺めてから階段を降りてゆく。…するとどうだ、カンポの外からまたあの応援団のドラムの響きが聴こえてくるではないか!もう夜の11時が近い。帰り客が行き交う通りで延々と打ち鳴らされるマーチ。結果がどうであれ、彼らにとってはそれが試合毎の儀式なのだろう。次第に遠ざかるその音を聴きながら静かな夜のビジャレアルの街を歩く。悔しい想いを抱えてはいても、帰り道をゆく人々の表情から湿っぽさは感じられない。残念ながら今夜のゲームには敗れてしまったけれど、小さなこの街とロス・アマリージョス、そしてエル・マドリガルの歴史はずっと続いてゆくのだ。

家路に向かうひとの群れが次第に散ってゆく。2月の末だというのに全然寒くはなく、夜風が快い。そのまま歩いてホテルまで帰る事にした。昼間散々歩き回ったおかげで、もはや勝手知ったる(苦笑)この街だ。20分ばかり夜の散歩をすれば着く事だろう。人通りもまばらで、眠りに就きかけたビジャレアルの街。もし勝っていたら、また様子は違っていただろうか。
ホテルに戻りまたシャワーを浴び、気持が昂ったままでは寝付けそうにもないので階下へと向かう。案の定ホテルのBARはゼニト・サポーター達の祝勝会場と化していた。処狭しと居並ぶ大男の間をかいくぐり、カウンター席の端に座る。(敵方を応援していた)日本人の男がぽつんと独り。場違いもいいところだが仕方が無い…。“Una caña, por favor.”生ビールを頼む。長かった一日をぼんやりした頭で反芻する。街のあちこちで出会った人たちの顔が浮かぶ。赤ら顔の大男どもは矢継ぎ早にビールをおかわりしている。彼らを祝福すべきなのだろうが、どうにもそんな気分にはなれなかった。ロシア人達も私の事など気には留めてはいない様子だ。

ナマをもう一杯頼んだ。しかし増々目が冴えてくる。メニューを手に取り適当なアルコールを探す。が、あまりに種類が少ない。キツいのを承知でronラム酒を選ぶ。よく見るとバーテンダーは女性だった。白のワイシャツにネクタイ。ヴェストとパンツを着こなした細身の麗人。ウェーブがかった黒い短髪に浅黒い肌、エキゾチックな顔立ち。メキシコあたりの出身なのだろうか、などと勝手に想像する。グラスになみなみと注がれたron。口にしてみると、やはり喉が焼けそうな程強い。勝利の宴の片隅で、独り打ち拉がれた気分になっていたのも手伝ってか、無理矢理飲んでいると何だか胸がむかむかし始めた。酔いが回って来た頭でなんとか西語を組み立て、麗人に水を頼もうとするがビールを求めるロシアン達の手が何本もカウンターの中へ伸びている。暫くして突然、もう時間だから今日の仕事はこれでおしまいよ、麗人がそう宣言する。不満の声があちこちから上がるが聞き入れない。サッサと店じまいしているところに声を掛け “¿Podría darme una copa de agua? 水を一杯もらえませんか…。”と哀願する。彼女は“やれやれ”、といった風に肩を竦めると、カウンターの中に屈み込む。そして取り出したミネラル・ウォーターのボトルを私の目の前にボン、と置くと、瞬く間に立ち去っていった。
暗く静かになったBARにまだ居残ったロシア人たちの話し声が聴こえる。焼けた喉においしい水を注ぎ込む。時刻は既に明日になっていた。
〈続く〉
※後日談(あれから1年…)
ビジャレアルの反撃を振り切り、16強に進んだFC Zenit Saint Petersburg ゼニト・サンクトペテルブルグは、この後決勝にまで登り詰め、スコットランドのグラスゴー・レンジャースを破ってUEFA CUPを制し、見事チャンピオンに輝いた。EURO2008で衝撃的な活躍を見せたロシア代表FWアルシャビンは、ゼニトの所属。翌朝買っておいたスポーツ新聞as紙を後で確認すると、この夜のゲームにもスタメンで出場していたのだが何故か全く印象に無い…。監督はドイツW杯で韓国を率いたオランダ人、ディック・アドフォカート。彼が連れて来た韓国代表選手のうち、イ・ホはロスタイムに交替出場。キム・ドンジンは遠征メンバーに入らず。フース・ヒディンクに率いられたロシアの快進撃を考え合わせると、韓国だけでなくロシアのサッカーとオランダ人監督の相性もよいのかもしれない。
ビジャレアルはこの後リーガでは好調を維持し、マドリーに次ぐ2位でフィニッシュ。今季のチャンピオンズ・リーグは順調に勝ち上がり、8強進出を賭けたパナシナイコスとの対戦を目前にしている。明後日・25日にまずホームゲームを戦うロス・アマリージョス。ビジャレアルの街の今の様子はどんなだろうか。
※参考資料
○[現地密着ルポ] ビジャレアル「幸福な冒険」 - goo スポーツ:NumberWeb -
○2008年2月22日付as紙
○Villarreal C.F. - Web Oficial
○Villarreal - Wikipedia, the free encyclopedia
○VillarrealCF - Wikipedia, the free encyclopedia
○Estadio El Madrigal - Wikipedia, the free encyclopedia
○Pamesa Ceramica社 ロッチ会長が経営するセラミック企業のサイト
○Pamesa Ceramica社の所在地
○TRANSIT 第3号 特集 スペイン・ポルトガル〜美しき太陽追いかけて
※お詫び
前回の記事で、私の買ったチケットがアウェー側の席だったと書いておりましたが、どうやらホーム側だったようです。記事を修正すると共に、ここに訂正しておきます。
Villarreal CF - FC Zenit San Petersburgo
Jueves, 21 de febrero del 2008
Estadio El Madrigal,Villarreal
ビジャレアルの街のはずれにエル・マドリガルが完成したのは1923年というから、日本でなら大正時代の末に当たる大昔の事。以来86年、幾度もの改修・拡張工事を経ながら今も同じ場所にある。始めのうちは“Campo del Villarreal≒ビジャレアル・グラウンド”と呼ばれていたが、2年後の1925年、まだ当時は市街地化しておらず片田舎だった辺りの地名を採って“エル・マドリガル”と名付けられたという。
同じく1923年に産声を上げたサッカー・クラブ Villarreal CFは、大事なこの本拠地のこけら落としを、何故か隣り街である県都カステリョン市のダービーマッチ CD Castellón - Cervantes戦に譲っている。地域リーグや2部・3部の間を昇降しながらその歴史の大半を過ごしていた“El Submarino Amarillo イエロー・サブマリン”が、晴れてトップリーグに“浮上”するのは1998年。その前年には、国内指折りのセラミック企業の主であるFernando Roigフェルナンド・ロッチ氏が会長に就任し、卓越した経営手腕でクラブ強化に乗り出していた。(ちなみにセラミック・タイルの製造はビジャレアル市の主要産業である)一度は2部に逆戻りしたものの、1年ですぐに復帰。その後は1部の常連となり、近年はリーガ・エスパニョーラを代表する強豪クラブのひとつにまで成長を遂げているのはご存知の通り。
わずか人口5万人弱の小地方都市に、86年前の昔から消滅する事なく存続するサッカークラブとそのスタジアム。つまり、この街で生まれ育った人なら皆知っているだろう、当たり前に在るもの。2千人に満たない数の観客しか集められなかった頃が嘘のように、今やエル・マドリガルの平均入場者数は17000人。この08/09シーズンは2万人を超えるサポーター会員を抱えると聞く。まさかその全員がビジャレアル市民では無いとしても、これは驚異的な数字である。
ビジャレアルの街に暮らす人々にとって、エル・マドリガルに行き、ビジャレアルCFを応援するとは、一体どんな事なのだろうか。
続々とcampoカンポに入場してきたドラム隊は、そこが指定席なのだろうホーム側ゴール裏近くのコーナー付近に陣取った。係員に教えてもらった私の席は彼らの左斜め後方、通路に面した処だった。シートに腰を落ち着け、ゆっくりと場内を見渡す。まず臨場感が素晴らしい。ピッチまでが凄く近く、席の傾斜も申し分無い。ゴール裏に視線を向けてみる。そこを埋めているのは様々な顔。老いも若きも、男も女も。これは言わばビジャレアル市民の集いなのだろう。意外にも黄色のシャツを身に着けた人は少ないようだ。普段着であること。試合観戦は何も特別な事では無く、彼らにとっては極々日常的な愉しみなんだろうなと思わせる。遠くに一部青色が目立つ区域を確認できた。優に200人を超えているだろうか。ロシアからの応援団は私のいる処からはほぼ対極に位置するコーナー・フラッグの上、柵で仕切られた狭いスペースに隔離されていた。ゴール裏ではなく、そこがアウェー席なのだろう…。
エル・マドリガルは豪奢な建物では決してない。むしろこじんまりとして飾り気の無い、簡素と言えそうな造りだ。しかし唯々フットボルを堪能する為にはこんなに適した場所も無いに違いない。2万人近くの市民が肩を寄せ合うように、固唾をのんで選手達のプレーに見入る。熱を含んだその空気の親密さ・その雰囲気は、何処となく田舎街の小さな劇場にいる様な気分にさせる。或は懐かしさ漂う芝居小屋(!)だろうか。更に開始時刻が夜の8時45分とくれば、このゲームは一種のレイトショーではないか。

小さな街のスタジアムに、今宵もフットボルを楽しみに人びとが集まってくる。ドラム隊の繰り出すマーチに合わせてゴール裏から聴こえてきたのは、手拍子による合奏。それがある時は強く、ある時は温かく、波の様にうねりながらカンポの屋根に響き、ピッチへと流れてゆく。シンプルな手拍子に何と豊かな表情がある事だろう。そしてそれが、何と素晴らしい応援になる事だろう。心が揺さぶられ、胸が熱くなる。笑みを浮かべながらゴール裏の席で柔らかく手を叩く銀髪の御婦人の姿を目の当たりにした時、堪えきれずに到頭私の涙腺は決壊した。カンポを包んでいたのは、Los Amarillos=ビジャレアルのチームへの、市民サポーター達の無償の愛だった。それがゲームに臨んだ選手達の背中を押していた。

アウェーの第一戦で0-1の敗北を喫しているビジャレアルには2-0の勝利が求められる。果敢に攻めるロス・アマリージョス。これぞピボーテ、マルコス・セナが熟練の捌きでボールを散らす。左サイドからは洒落たボールタッチで、再三ピレスがチャンスメイクを試みる。先発FW、トマソンの相棒にはイタリアの若き俊才ロッシ。しかしゴール前を固めたゼニトの守りを思う様に崩せない。相手はファウル覚悟の、体格を利した激しいチャージを仕掛けてくる。何度もピッチに倒れるビジャレアルの選手達。特に小兵ロッシが餌食になる。そして攻めあぐねる時間が続いた31分。あろう事か、GKディエゴ・ロペスの痛恨のミスで敵に1点を献上してしまった…。

詰めかけた観衆は選手のプレーのひとつひとつを食い入る様に見つめ、身を揺らしながら喝采を叫ぶ。かと思いきや審判の判定に熱り立ち、手を突き伸ばして異議申し立てする。敵のファウルには勿論痛烈なブーイング。ただその罵声に憎しみの色は無い。これはおらがチーム可愛さ故の威嚇の唸り声だ。私の左隣りの兄ちゃんはスナックを貪りながらひとり寡黙に試合を観ているのだが、惜しいチャンスを逃すと決まって飛び上がりかけては、頭を抱えて席に落ちる。(だんだんそのリアクションが私とシンクロしてきて困る)人目を憚らず、ゲームにのめり込んでゆく人々。もうひとつの連想。こんな光景を何処かで見た。そうだ、映画『Nuovo Cinema Paradisoニュー・シネマ・パラダイス』。とあるシチリアの田舎町の名画座。そこで上映される悲喜劇の数々に我が身を投影しながら、喜怒哀楽豊かな反応をみせるあの観客たち。相通ずるのは陽光降り注ぐ地中海地方の風土とラテンの気質。そう、確かに此処エル・マドリガルは、フットボル小劇場のパライソ(パラディソを西語で言うとこうなる)すなわち楽園に違いない…。

後半、エンドが変わってホーム側に向かって攻めるビジャレアル。ゴール前の攻防が私のすぐ目の前に。その迫力。痛いアウェー・ゴールを許し、まずタイに戻すのに3点が必要な状況だ。50分。ゼニトの高い壁に阻まれ不調のロッシに変えてニハト投入。スタンドが発する熱が伝染したのか、或はトルコの血か。そのプレーが熱い。怒濤の勢いでピッチを駆け回り、“よこせ!!”とばかりに手を振り上げてボールを要求する。俄然攻撃が活気づく。74分のCK、ニハトが蹴ったボールをギジェ・フランコが頭で合わせて同点。あと2点…。

ペナルティエリア近くまで持ち込んだピレスが渾身のクロスを放つ。だが惜しくも…。


刻々と時間が過ぎてゆく。隣の兄ちゃんの手が忙しなく動く。足元には豆の皮が散乱する。

露骨に時間稼ぎするゼニトGKに掴み掛からん勢いのニハト。熱い。


終盤、パワープレーまで織り交ぜ、捨て身の猛攻。土壇場の89分、ピレスが放ったシュートのこぼれをトマソンが押し込む。ようやく2点目が入った。“バァ!” “バァ!!”何時しかスタンドのあちこちからそんな叫び声が発せられ始めていた。
“Va!”…か? おそらくバレンシア語なのだろう。カスティージャ語(スペイン語)なら“¡Venga!”になるところだろうか。“行け! 行け!!” あと1点。なんとか延長に持ち込めば勝ち抜きが見えてくる。ロスタイムに入った。もう時間が無い。“Va!!” いつの間にか私もそう叫んでいた。そこら中から“Va!!”を連呼する声。“バ〜〜ァァッ!!…”…次第に悲痛なトーンも混じり出す。“行けっちゅうたら!!…”。


5分に及ぶ長いロスタイム。しかし起死回生の3点目を奪う事は叶わずに試合終了のホィッスルが響く。圧倒的にボールを支配しながら痛恨の失点に泣いた。試合そのものには勝利を収めたものの、アウェー・ゴールの差により、ビジャレアルのUEFA CUP制覇の夢は絶たれた…。カンポを覆う脱力感。人々が次々と足早に去る中、私は名残惜しい想いでエル・マドリガルのスタンドに残っていた。そうしてしばらくゲームの余韻に浸っていた。
やおら腰を上げ、すっかり人気が失せた“Campo Paraiso”のスタンドとピッチをもう一度眺めてから階段を降りてゆく。…するとどうだ、カンポの外からまたあの応援団のドラムの響きが聴こえてくるではないか!もう夜の11時が近い。帰り客が行き交う通りで延々と打ち鳴らされるマーチ。結果がどうであれ、彼らにとってはそれが試合毎の儀式なのだろう。次第に遠ざかるその音を聴きながら静かな夜のビジャレアルの街を歩く。悔しい想いを抱えてはいても、帰り道をゆく人々の表情から湿っぽさは感じられない。残念ながら今夜のゲームには敗れてしまったけれど、小さなこの街とロス・アマリージョス、そしてエル・マドリガルの歴史はずっと続いてゆくのだ。

家路に向かうひとの群れが次第に散ってゆく。2月の末だというのに全然寒くはなく、夜風が快い。そのまま歩いてホテルまで帰る事にした。昼間散々歩き回ったおかげで、もはや勝手知ったる(苦笑)この街だ。20分ばかり夜の散歩をすれば着く事だろう。人通りもまばらで、眠りに就きかけたビジャレアルの街。もし勝っていたら、また様子は違っていただろうか。
ホテルに戻りまたシャワーを浴び、気持が昂ったままでは寝付けそうにもないので階下へと向かう。案の定ホテルのBARはゼニト・サポーター達の祝勝会場と化していた。処狭しと居並ぶ大男の間をかいくぐり、カウンター席の端に座る。(敵方を応援していた)日本人の男がぽつんと独り。場違いもいいところだが仕方が無い…。“Una caña, por favor.”生ビールを頼む。長かった一日をぼんやりした頭で反芻する。街のあちこちで出会った人たちの顔が浮かぶ。赤ら顔の大男どもは矢継ぎ早にビールをおかわりしている。彼らを祝福すべきなのだろうが、どうにもそんな気分にはなれなかった。ロシア人達も私の事など気には留めてはいない様子だ。

ナマをもう一杯頼んだ。しかし増々目が冴えてくる。メニューを手に取り適当なアルコールを探す。が、あまりに種類が少ない。キツいのを承知でronラム酒を選ぶ。よく見るとバーテンダーは女性だった。白のワイシャツにネクタイ。ヴェストとパンツを着こなした細身の麗人。ウェーブがかった黒い短髪に浅黒い肌、エキゾチックな顔立ち。メキシコあたりの出身なのだろうか、などと勝手に想像する。グラスになみなみと注がれたron。口にしてみると、やはり喉が焼けそうな程強い。勝利の宴の片隅で、独り打ち拉がれた気分になっていたのも手伝ってか、無理矢理飲んでいると何だか胸がむかむかし始めた。酔いが回って来た頭でなんとか西語を組み立て、麗人に水を頼もうとするがビールを求めるロシアン達の手が何本もカウンターの中へ伸びている。暫くして突然、もう時間だから今日の仕事はこれでおしまいよ、麗人がそう宣言する。不満の声があちこちから上がるが聞き入れない。サッサと店じまいしているところに声を掛け “¿Podría darme una copa de agua? 水を一杯もらえませんか…。”と哀願する。彼女は“やれやれ”、といった風に肩を竦めると、カウンターの中に屈み込む。そして取り出したミネラル・ウォーターのボトルを私の目の前にボン、と置くと、瞬く間に立ち去っていった。
暗く静かになったBARにまだ居残ったロシア人たちの話し声が聴こえる。焼けた喉においしい水を注ぎ込む。時刻は既に明日になっていた。
〈続く〉
※後日談(あれから1年…)
ビジャレアルの反撃を振り切り、16強に進んだFC Zenit Saint Petersburg ゼニト・サンクトペテルブルグは、この後決勝にまで登り詰め、スコットランドのグラスゴー・レンジャースを破ってUEFA CUPを制し、見事チャンピオンに輝いた。EURO2008で衝撃的な活躍を見せたロシア代表FWアルシャビンは、ゼニトの所属。翌朝買っておいたスポーツ新聞as紙を後で確認すると、この夜のゲームにもスタメンで出場していたのだが何故か全く印象に無い…。監督はドイツW杯で韓国を率いたオランダ人、ディック・アドフォカート。彼が連れて来た韓国代表選手のうち、イ・ホはロスタイムに交替出場。キム・ドンジンは遠征メンバーに入らず。フース・ヒディンクに率いられたロシアの快進撃を考え合わせると、韓国だけでなくロシアのサッカーとオランダ人監督の相性もよいのかもしれない。
ビジャレアルはこの後リーガでは好調を維持し、マドリーに次ぐ2位でフィニッシュ。今季のチャンピオンズ・リーグは順調に勝ち上がり、8強進出を賭けたパナシナイコスとの対戦を目前にしている。明後日・25日にまずホームゲームを戦うロス・アマリージョス。ビジャレアルの街の今の様子はどんなだろうか。
※参考資料
○[現地密着ルポ] ビジャレアル「幸福な冒険」 - goo スポーツ:NumberWeb -
○2008年2月22日付as紙
○Villarreal C.F. - Web Oficial
○Villarreal - Wikipedia, the free encyclopedia
○VillarrealCF - Wikipedia, the free encyclopedia
○Estadio El Madrigal - Wikipedia, the free encyclopedia
○Pamesa Ceramica社 ロッチ会長が経営するセラミック企業のサイト
○Pamesa Ceramica社の所在地
○TRANSIT 第3号 特集 スペイン・ポルトガル〜美しき太陽追いかけて
※お詫び
前回の記事で、私の買ったチケットがアウェー側の席だったと書いておりましたが、どうやらホーム側だったようです。記事を修正すると共に、ここに訂正しておきます。
■
[PR]
▲
by footle
| 2009-02-23 17:34
| en España